新バッハ日記 2
(2017年4月より連載)
6月某日
無伴奏で演奏するということは他からの制約がない。
制約があるとしたらテキストに対するそれだけだ。
ところがバッハの無伴奏チェロ組曲のテキストは今まで何度も書いたようにどの音を弾くかということに関しては未だに結論が出ていなばかりか、問題はさらに広がる傾向にすらある。だから僕はそれに関してはもう諦めた。すでに現存している資料だけで充分バッハの素晴らしさがわかる。
どの主張もどのエディションも一理ある音たちだ。
なので僕はそのときの気分やフィーリングで音を選ぶことにした。
とは言っても、実際コンサートで弾くにはそのときだけの選択はする。これはミスをしたくないからというプラグマティックな選択にしかすぎない。
そもそも、和声理論や様々な理屈を重ねてもこれがこのフレーズの中で唯一絶対に正しい音というものがあるだろうか?多分ない。ないばかりか、理論や理屈に縛られすぎた整然とした音楽ほどつまらないものはない。
バッハもヴィヴァルディもハイドンもベートーヴェンもシューマンも一瞬ありえないと思える学校の和声理論からはみ出した音の並びや構築があるから面白いのだ。
演奏は常に自由で闊達で生きていなければならない。固定されたものはもうその時点で死んでいる。聞く方も弾く方もただ窮屈なだけだ。
8月某日
アンナ・マグナレーナの写譜
9月14日のバッハ全曲リサイタル第2回(ルーテル市ヶ谷ホール 19時開演)近づいてきた。前回から新たな試みとして行なっている僕のバッハの演奏について書く。
アンナ・マグナレーナ バッハ(以下AMBとする)の写譜はバッハの書いたものと見分けがつかないくらい美しいものだが、バッハ本人だと決してありえないような(または音楽的知識がある程度以上の人もありえないような)ミスがあるので、文献価値としては第1級にもかかわらず問題視される傾向にある。というか僕自身もそういうひとりであった。
しかし前回からこのコピー譜を譜面台に置いて文字通り正面から付き合うことにした。その理由はまず第一に書かれている内容をミスだと思われる音も含めて懐疑的にならずに試してみることだ。このやり方で考えが変わったところが沢山ある。どういうわけかこの譜面を見ながら弾いていると今まで明らかにミスだと思っていた音たちがなるほどと考えが変わってくることが多いからだ。
とはいえ、全て従えるわけでもない。例えば第5番のジーグの29小節目は段が変わったところでもう一回同じ小節を書いている。これはさすがにどう考えてもミスである。他にもガヴォットの2小節目(半拍の小節を1小節目と勘定して)は2つ目の四分音符の2個の8分音符が抜けている。音名でb-gだがこれはリュート組曲を見て見れば一目瞭然なので明らかに書きそこないだ。
それと、第6番の記譜の問題がある。現代の売り譜は現代の慣例に従ってヘ音記号の他はテナー記号(ハ音記号第4線)とト音記号を使っているがAMBはバッハがおそらくそう書いたのだろうが、ヘ音記号とハ音記号第3線(アルト記号)と第1線!(ソプラノ記号)が使われている。アルト記号は同じくバッハのガンバソナタ以来相当慣れたので問題なくスラスラ読めるが、ソプラノはせいぜい移調読みの手伝い程度くらいにしか使ったことがないし音が読めてもチェロという楽器との瞬間的な反応に全く慣れていないのでかなり手こずった。
にもかかわらず、この楽譜で弾くことにはそれにも増して素晴らしいことが沢山ある。
音の選択という話は以前も書いたが、すでに前回の第3番では今まで弾いたことのない音を選択して弾いた。具体的な例を一つあげると、第3番ジーグの終わりから4小節前がある。この小節はこれまではソーレーシーラーソーファと弾いていた。多くの出版譜もそうなっている。その訳は前半の同様の終結部分がレーラーファ♯ーミーレードだから、それと同様にという「理屈」があるからだ。しかしAMBではソードーシーラーソーファとなっている。(写真を参照してください)なんだかちょっと書き損じたような痕跡があり音符の上にわざわざC,H,A,G,Fと音名を書いてあるので疑いようがない。
さて、これがハイドンやベートーヴェンを経験し、音楽学校でしかめっ面しく理論を学んでしまった僕たちのそして一部の音楽学者たちの陥り安い「定型」思考である。一回目がこうだから2回目も同様に、、、と考える思考パターンだ。これが昨日書いたお話の一番わかりやすい例かと思う。1回目と2回目が同様という例はそれこそ山のようにある。バッハにも沢山ある。しかし同様でなければならないという決まりもない。むしろ少し予想から外れた微妙な変化は予定調和な退屈さを回避できる。そういう例もバッハには沢山あるのだし。
ちょっと判りにくい話になるが、現代の僕たちは提示部ー展開部ー再現部というバッハの死後、18世紀後半にシンフォニーやソナタの量産体制のために考え出された作曲法、いわゆるソナタ形式の発想からなかなか出られないのである。
8月某日
5弦チェロは特殊な楽器
この前知り合いのピアニストに(彼は大変優れたピアニストで一流の音楽的見識を持っている人だ)どうしてわざわざ5弦で弾くのか?と聞かれた。彼ほどの人でもそういう疑問を持つのかとちょっと驚いたが、よく考えて見ればその方が当たり前なのかもしれない。
バッハの6番をどうして5弦チェロ弾くのか。理由ははっきりしている。バッハがそういう楽器のために書いたから。それ以外の積極的理由はどこにもない。
バッハがある特定の楽器に音楽を書くときは、その楽器のその時代での最大限の可能性を引き出して書く。と断言したくなるくらいあらゆる楽器の性能にこだわりを持つ作曲家だと思う。
チェンバロのために書いた曲で言えば、ゴールドベルグは例外中の例外的難しさとしても、5番のブランデンブルグ協奏曲の素晴らしさ、パルティータ、フランス、イギリス組曲どれを取っても華麗な技を披露できるように書かれている。ヴァイオリンの無伴奏でもフーガやシャコンヌは前人未踏と言っていいほどの難易度を要求している。
かと言って異常な手の大きさとか、人並み外れた肉体的コンディションと言ったサーカス的技術は決して求めない。人並みの手や腕があれば誰でもいつかは到達できるという範囲で必ず止めている。鍵盤で言えば9度以上の開きはないし、ヴァイオリンでも10度の拡張はない。常に節度がある。
バッハは楽器の性能ということに特別な興味があったことは疑いがない。オルガンの建設(そういう言い方をするのか)引き渡しの検定を若い頃随分頼まれて科学者や建築家顔負けの明細な検分書をたくさん書いている。
そういう性格のバッハだから、5弦チェロに関してもかなり突っ込んだ研究をしているに違いない。そうでなければあそこまでの音楽をかけなかったろう。
少し余談だが、5弦チェロで弾くというと時々くる質問がある。「やっぱり5弦だとハイポジションが減って楽になるんですか?」というやつだ。
答えは、今の所「否」である。
楽器にもっともっと慣れたらひょっとして4弦では弾く気がしなくなるほど楽になるかもしれないが、今の所は使い慣れた4弦で弾く方がずっと楽である。
では、どうして?
答えは簡単である。曲は5弦で下からc,g,d,a,eと調弦された弦楽器のために書かれているから。4弦では絶対無理な5弦でしかできない技や音楽がそこには書かれているから。
ただし、これをチェロではなく他の楽器だったと主張する人もいるが楽器の構え方、大きさ、その他諸々の構造的問題はあるにしてもとにかく前述の調弦がなされた弦楽器であれば全てOKではないか。ここから先は楽器の名前の問題で本質の問題ではないと思うがいかがか。
第5番をスコルダトゥーラで弾くのと同じ理由である。
copyrigt Naoki TSURUSAKI